四方山話2
いつのことかもどこでかも記憶は定かではないが,「音楽とは何かを考えるのは音楽に飽きた証拠である」というのを聞いたことがある.曰く,音楽に夢中な時は何も考えずに楽器をかき鳴らし,時間を忘れて練習するものであって,「音楽とは何か」を考える時間ができるということは夢中になっている時間が少なくなった証拠とのことである.
私も前の記事でそのようなことを書いたからもしかしたら数学に飽きてきたのかもしれないが,それでも思うことろがあるから書いた.
1とは何かとか,数は存在するのかとか,そういうことは現代の学校教育で数学や算数を学ぶ時にふと疑問に浮かぶかもしれないし,それに対して様々な答えを準備している人もいるだろう.
しかし,前の記事に書いた通り,獲得した獲物を物々交換するのに”同じ程度の価値がある”ことを保証するには何らかの方法で”数”を数える必要があっただろうし,そのこと,すなわち物々交換によってより多く食料を獲得できるか否かは自らの生き死にと関わっていただろう.
そんな時には,”数を数えるとはどういうことか”などは考えずに,相手に”数”をごまかされていないかを夢中になって指折り数えたはずである.それはもしかしたら音楽に夢中になる以上のことかもしれない.
結局のところ,”1”が存在しても存在しなくても,数の概念がなんであっても,自らの命をつなぎ,種を繁栄させるためには”数える”ことが必要であったことに違いはないだろう.
”数学”を真理や美という言葉を使って美化せずとも,例えば,おやつに夢中になっている子には,
「お菓子の”数”が計算できないとおやつをもらうときに損するよ」
という一言で片がつくのではないだろうか.
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四方山話
何のために数学をやるのかという疑問は実際に数学を生業としている身でもふと頭に浮かぶ時がある.今となっては数学そのものが研究対象となり,数学的な美しさを味わうとか真理の探究とかそういった人間の好奇心と知的欲求が根源となっていることもあるだろう.私はまだまだその域には到達していないので,とにかく論文を書くことが第一義で,そのうちゆっくり自分が知りたいと思うことに近づけていけたらなぁ〜 と夢を見る程度である.
一方,数学が数学として誕生した理由については美とか真理とかそういう飯の種にもならないものではなく,人間が生存していく上での根源的な欲求が元になっていたのだろうとおもう.
想像してみて欲しいのだが,この世から貨幣が消えて(あるいは貨幣の価値が紙切れ同然になったとして)どのように経済が動くかというとやはり物々交換になるだろう(そうなった時に真っ先に食べていけなくなるのは私のような職業だと思うが).
例えばあなたが,その体力と知恵から狩猟の能力に目覚めたとする.毎日狩りに出かけては家族だけでは食べきれないほどの獲物を獲得することができるようになった.一方,あなたの友人は水泳部で鍛えた体躯と自慢の視力を生かして毎日食べきれないほどの魚を獲得している.
たまには魚も食べたいと思うあなたと,たまには肉も食べたいと思うあなたの友人は物々交換を行うことになった.その時,交換する獲物どうしが”同じ分量である”ことをどのように保証すれば良いだろうか.
現在の社会においては重さとか体積(水に沈めれば測れる=アルキメデスの原理)といった基準を思いつくが,遥か太古,まだ人類が物々交換による社会を構築し始めた頃なら当然問題になるだろうし,一歩間違えれば争い(戦争)になるだろう.当然,何らかの方法で
”数を数える”
という行為が必要になる.獲物をいくつかの塊に分けておいて(見た目で大体の大きさが同じであると判断したとして)その塊がいくつあるかを数えるのである.
単に数を数えるだけでなく,農耕が始まればより多くの収穫を得るために広い土地が必要になるから,何らかの方法で”面積”を測る必要がある(測量と幾何学の誕生).
農耕も,漁も,天候と季節に左右されるから,太陽や月,星の動きを観測して天候を予測できれば食料確保の効率を上げることができる(天体の運動と関数,微分方程式)
ある程度経済が発達し,階級社会になれば自らの国家を有利に運営するためにより優秀な数学者や工学者が必要になる.そうなれば数学者も工学者も職を得るために”自分が優秀である”ことを示そうと互いに問題を送り合い,解けるかどうかを競いあう(代数方程式はその典型例であるし,アルキメデスと黄金の王冠は有名な話である).
(もちろん以上のことがらについては,何か証拠となる文献を見つけた訳ではなく,私の妄想の域を出ないので,話半分で読んでもらいたいのだが)
結局の所,人間はその存在においてマズローの欲求段階説の枠から逃れることはできないから,数学の誕生もきっと人間の生存に対する欲求とか社会での承認欲求とかが根源となって生まれたのだろうと私は思っている.なんせ我々には108つも煩悩があるのだから.
最初に書いた通り,数学的な美しさを味わうとか真理の探究といったことを否定するつもは毛頭ないし,むしろそのような価値観に基づいて数学的営みを行うことができることは幸せだと思う.私も数学をやっていて,この定理は美しいなぁ〜 と思う定理に出会うこともあれば,自分もいつかこんな論文を書いてみたいなぁ〜 と思う論文に出会うこともある.
しかしながら,数学における美や真理といった価値の一方で,数学そのものの存在価値をそこだけに縛り付けるようなことは,人間の傲慢さの表れではないかともおもう.
数学の勉強方法 -質より量 vs 量より質-
「数学の勉強方法」でネット検索すると、概ね2つの流儀がある
「質より量」派
とにかく量をこなして、基本的な解法のパターンを暗記する。応用問題といえども、基本的なことの組み合わせで解けるから、たくさんの解法のパターンを暗記すれば大抵どうにかなる。
「量より質」派
量をこなすよりも良問をじっくり時間をかけて解く。別解を考えたり、自分で問題を一般化したり、背後にある数学的構造をしらべたり、考え付くありとあらゆることをやってみる。
「このブログの結論」
このブログにも何度か勉強方法について書いている。読んでいただいた方はお分かりかもしれないが、私の結論は、「量から質へ」である。
新しいこと(単元)の学びはじめは言葉の定義はもちろん、基本的な公式や定理を覚える必要がある。だから、とにかく教科書を写し、例題や練習問題をたくさん解いて、内容を暗記し、そして理解するように努める。さらに(もし試験で点をとる必要があるなら)簡単なものについては解法のパターンを暗記しておく。
そうして、基本的なことがある程度できるようになり、だいたい分かってきたら、少しずつ応用問題にうつるが、このときになってから「良問」をじっくり考えるようにすればよいのである。
千里の道も一歩からである。
「受験数学」と「数学」
私はいわゆる「勉強」と「受験勉強」は全く別のものだと考えている.したがって数学も「受験数学」と「(学問としての)数学」とは違うものと考えている.
「関数のこと」
「無限を扱う力を解き放て」(証明と数学の力)
有名な話だと思うが,「カラスは黒い」ことを証明するには世界中すべてのカラスを調べて,全部が黒いことを示さなければならない.到底無理な話である.
数学の世界では無限にたくさんのものについて,成り立つ性質を調べることができる.
例えば,
「偶数の2乗は必ず偶数である」
ことを示すには次のようにすればよい:
n を整数とすると偶数は 2n とあらわせるから
2n × 2n = 4n^2
4n^2 は2で割りきれる整数であるから偶数である.
地球上のカラスは多分無限にはいなくて有限のはずである.それでもすべてのカラスを調べるのはとてもできる気がしない.しかし,数学の世界では無限のものについて正しいことがわかる場合がある.
これは、「無限を扱うことができる」という数学の力のひとつである.
数学の勉強方法 -補足-
前の記事で、文章題の練習には新聞記事を要約するのがよいとかいた.
少し補足すると、数学の文章題を解くには、導きたい答えを導くために,文章中の必要な情報 "だけ" を読み取る(不必要な情報を頭の中から蹴飛ばす)必要がある.
例えば植木算なら,植えられるものが植木だろうと,チューリップだろうと,長さ1の線分だろうと,でてくる数値は同じである.
そもそも,地面に植えなくてもただ点を直線の上に並べると言い換えてもよい.
文章を読んで,その文章が伝えたいことを伝えるために不必要な情報を削ぎ落とし,必要な情報だけを抜き出すには既に短くまとめられた新聞記事をさらに要約するというのがよい練習になる(と思う).