数学という文化

山口昌哉先生は、「数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学」のなかで、数学は文化であると述べられている。

例えば、日本中の美術館の絵画をぜんぶ燃やしても良いかと聞かれれば、絵画に詳しくなくても、一度も美術館に足を運んだことはなくても、それはダメなことだと思うだろう。文化とはそういうものだと思う。

例えば、数学が嫌いな人でも、学校で全く算数や数学を教えなくても良いかと聞かれれば、やはりそれはダメなことだと思う(そうであってほしい)。

日本人は日本という社会と国家と文化の中に在って、日本の部分であるといえる。
例えば、1年後に、日本列島が無くなるとする。そこで、国連が日本列島と全く同じ面積の人工島と必要なだけの資金を用意して、日本にすむすべての人が移住できる島を作るように、日本政府に要請したとしよう。
おそらく、その人工島にできる街や人々の営みは、日本人が計画し、日本人が造るものである以上、「日本の文化」を反映したものになるだろう。電車もバスも正確で、家屋も、公共施設も、すべてが日本人が使いやすく、慣れ親しんだものになる。このことは、例え日本列島という「日本の文化の入れ物」がなくなっても、人々が日本の中に暮らし、日本の部分であると同時に、その人々の中にも日本の文化全体が含まれているということである。これは、日本に限らずとも、韓国でもアメリカでもイタリアでも、どの国と文化についても言えることだと思う。エドガール・モランのいう複雑性 - 全体は部分を含み、部分はまた全体を含む - ということの一例である。


数学という文化をその個人の中に含む人が、社会のなかで活躍する、数学を学んだ人がそういうひとで在ってほしいと思うし、そういう人を社会に輩出できるような教育ができればと思う。

 

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数学的自然について

私もまだまだきちんとわかっていないのだが、数学的自然が自分の中の畑に育っている状態とは、それはそう考えたら良さそうだね とか そういうものを扱うのは確かに良さそうだね とか思うことではないだろうか。

私の場合だと、


それはそう考えたら良さそうだねと思えたこと

関数、ベクトル、複素数微分積分、etc...


思えなかったこと(何でそんなことを考えるのか、なぜ大事なのかわからなかったこと)

数列、高校の平面幾何、確率や場合の数 etc...


である。

数列なんて、最近ようやく そう考えたら良さそうだね と思えてきたくらいだし、平面幾何にいたっては、いまだによくわからない(中学校の合同と相似の証明とかは大好きだったのだが...)

学校教育では、小学校で習うことは、中学校で習うことが "自然" に感じるような内容になっているし、中学校での内容は、高校で習うことが "自然" と感じるような内容になっている。

積み重ねとは、まさにこのことだろう。だからといって、全部わかっていないと先に進めないかというと、そんなことはなくて、とりあえず「そういうものだ」と思って進んでいるうちに、後からわかることもあるから、諦めずに、わかるときがくるまで、わからないという種をあたためておくことである。

 

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数学の研究の話

 

 多変数複素関数論のほとんどを独力で築きあげた岡潔先生は「数学の研究は農業に似ている」と述べらている.「農業では成長する力は種の方にあって人間はせっせと世話をする.数学も同じで,成長する力は問題の方にあるから,これという問題を決めたら後はせっせと世話をすれば良い」といった趣旨のことを書かれている.

 始めて読んだ時は,確か大学院生の時だったと思うが,この言葉の意味は全くわからなかった.大学院生くらいだとなんとか論文を書くことしか頭になくて余裕がなかったからかもしれないし,まだまだ人間ができていなかったからかもしれない.

 最近になってようやく,なんとなくではあるが自分なりに

 

  「数学の研究は農業に似ている」

 

 という岡先生の言葉の意味を噛み砕くことができてきたように思う.

 

 まず,”問題” というのは,受験問題や定期テストの問題ではなく(当たり前!!),自分が不思議だなぁ〜 とか なぜこうなるのだろう とか 思った疑問のことである.その疑問を解決するために,あれこれと勉強し,そのうちになんとか手がつけられそうな問題を指導教員の先生からもらったり,運が良ければ自分で見つけることができたりして論文が書けるようになる.そしてそうこうしているうちに,初めに自分が疑問に思ったことをぼんやりと考え始めて,少しずつ解決の糸口が見つかる.... 

 

 あれこれと勉強する期間や,とりあえず手のつけられそうな問題を解くというのは,自分の中の畑を耕すこと,自分が初めに疑問に思ったことを考え始めるのはずっと温めていた疑問の種を植えることができるくらいに自分の中の畑の土が柔らかく十分に空気と水分を含んだ状態に耕されたこと,そして考え始めて自分なりにあれこれやってみるというのが水や肥料を撒いたり草むしりをしたりすること,解決の糸口が少しずつ見えてくるというのは芽が出て成長してきたこと,わかったという喜びは花が咲くこと,  そして研究発表したり論文になったりするのは実がなって収穫の時期が来たということであるのだと思う.そしてその実そのもの,あるいはその実をつけるまでの過程で,その問題の周辺に出てくる疑問や新しい問題はまた別の種となるから,それをまたあたためて,その種を植えるために別の場所を耕して......

 

 足立幸信先生 Amazon CAPTCHA によれば,数学の研究においては自分の中の数学的自然を育てるのが大事であるとのことである.

 

 この言葉の私なりの解釈は,畑を耕し,あちこちに植えた疑問の種をせっせと世話していると,また新しい種ができて,それをまた畑を耕すところから始めて... とそうこうしているうちに,自分の中の畑がどんどん広がって,たくさんの芽が出て,花や実があちこちにできているような状態のことなのだろうと思う.そしてたくさんの花と実は,自分の中の畑の自然を豊かにする.

 もちろん,そうなるまでに全く芽が出なかったり,途中で枯れてしまったり,最後の最後で花が咲かなかったり,実がならなかったりする問題はたくさんある.勘のいい人はうまく芽が出て成長しそうなものを選びとってできるのだろうが,なかなかそうはいかない.それでも,とにかく手当たりしだいに種をまいて世話をするしかないのだろう(足立先生は犬棒式と表現されている).そういえば指導教員の先生にも,1000 本の論文に目を通し,そのうちの100 本を精読して,またその中の10本について自分なりに計算をして,そしてその10本のうちの1本の論文の中から新しい問題を見つけて結果を出すことができればかなり確率がよい方だと言われたことを思い出す(要はもっと論文を読みなさいというお叱りを受けたわけであるが,私が傷つかないように言葉を選んでくださったのである).

 その一方で,一つの種がぐんぐん成長して大樹となり,たくさんの花や実をつけることもあるのだろう(できればそんな研究がしてみたいと思う).

 気が遠くなる話ではあるが,中にはよく育つ種を見分けることができる勘の良い人というのがいるので,そういう人と話をしてアドバイスをもらったり,あるいは共同研究ができたりする人は運が良い.そして今思えば,私自身もこうした運に恵まれてきたと思う.

 

 私が始めて数学を面白いと思ったのは大学2年生のことで,そして,これは面白い!!なぜこんなことになるのだろう??どうしたらこんなことがわかるようになるのだろう??と思うことに出会ったのはだいたい大学の3年生くらいのことである.

 

 最近,ようやくその頃に疑問に思ったことについて,色んな人の助言やアドバイスをもらいながら,そして共同研究者の方々の力も借りながら研究ができて,ポツポツと論文が書けるようになってきている.始めて疑問に思った時から数えるともう15年くらいの月日が経っている.

 

 桃栗三年柿八年. 気が長い話である.

 

追記1: 

足立先生も同じ趣旨のことを述べられているが,わからないことや疑問に思うことは自分の中の自然を成長させるための種である.だから,わからないからやめてしまうとか,わからないからやらないのではなく,わらかないことをたくさん自分の中の畑の横の物置小屋にしまっておいて,時々触ってみたり,ためしに幾つかを水につけて芽が出ないか観察したりする方が良い.そうこうしているうちに,その種を植えるのに最適の季節となり,その時に自分の中の畑が十分に耕されていれば,その時がわかる時である.

 

注意:

初めて他の方の言葉や書籍を引用したが,基本的に敬称は”先生”をつかうことにした.

 

追記2:

数学的自然の”数学”のところを変えて,”〇〇的自然” (音楽的自然とか,芸術的自然とか)と思うと,岡先生や足立先生の言葉は,人間の営みのうち,欲求段階の上位にくるような,自己実現に関わるものについてかなり真理に近い言葉ではないかと思っている.

 

追記3:

最終的には,そうして育てた自分の中の〇〇的自然を自分自身で眺めながら,よくもまぁここまで育てたなぁ とおもえればそれで幸せなのかもしれない.

 

追記4:

自分の中の畑で,花が咲くとか実がなるとかいうことがどういうことに対応するかは,対象となる事柄や,状況によっても違うだろうし,人によっても違うだろう.

 私の場合は研究と教育が主な仕事なので,研究者の立場からすれば上に述べたように論文が書けるというのが成果の一つである.そうでない人の場合でも,例えば小学生や中学生なら,できないことができるようになったとか,わからないことがわかったとか,そういう一つ一つの経験がその人の中の畑に咲いた花であり,実であるのだと思う.

 私のもう一つの仕事である教育について,”教育者としての自然”がどういったことで,なにを成果とするかについては,まだよくわかっていないから,もう少しあたためておいて,わかる時が来るのを待つことにする.

 

追記5


とりあえず論文がかけそうなことをやるというのは咎められるようなことではない。それは、自分の中の畑を耕す時期であると思っておくのがよいだろう。本当にやりたいことには、自分の中の畑を十分耕してから、じっくり取り組めばよいのである。

 

 

 

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四方山話3


結局のところ、数学を学ぶ意味とか数学の学問的価値を、ある特定の方向に意味付けすることは、その意味に価値を見いだせない人を数学から遠ざけるだけでなく、ともすれば、その意味に沿わない数学的営みを生業としている人の仕事を否定することにもなりかねない。

それは、数学から人々を遠ざけるだけでなく、数学の裾野を狭める方向に働くだろうとおもう。

もちろん、数学そのものがもっている真理や美といったことに数学をやる意味を見いだすことは大事だが、鉄道の運用システムの開発とか、天気予報のための数値計算とか、効率的な水道管の配置のためのアルゴリズムとか、数学が重要な役割を果たしている事も、数学の在りかたのひとつとして語られるべきだと思う。逆に、役に立つとか、これこれの応用があるとか、そういったことだけに数学の在りかたを意味付けることもまた同じである。

なにをするにも、バランスが大切てある。

四方山話2

 

 いつのことかもどこでかも記憶は定かではないが,「音楽とは何かを考えるのは音楽に飽きた証拠である」というのを聞いたことがある.曰く,音楽に夢中な時は何も考えずに楽器をかき鳴らし,時間を忘れて練習するものであって,「音楽とは何か」を考える時間ができるということは夢中になっている時間が少なくなった証拠とのことである.

 

 私も前の記事でそのようなことを書いたからもしかしたら数学に飽きてきたのかもしれないが,それでも思うことろがあるから書いた.

 

 1とは何かとか,数は存在するのかとか,そういうことは現代の学校教育で数学や算数を学ぶ時にふと疑問に浮かぶかもしれないし,それに対して様々な答えを準備している人もいるだろう.

 

 しかし,前の記事に書いた通り,獲得した獲物を物々交換するのに”同じ程度の価値がある”ことを保証するには何らかの方法で”数”を数える必要があっただろうし,そのこと,すなわち物々交換によってより多く食料を獲得できるか否かは自らの生き死にと関わっていただろう.

 

 そんな時には,”数を数えるとはどういうことか”などは考えずに,相手に”数”をごまかされていないかを夢中になって指折り数えたはずである.それはもしかしたら音楽に夢中になる以上のことかもしれない.

 

 結局のところ,”1”が存在しても存在しなくても,数の概念がなんであっても,自らの命をつなぎ,種を繁栄させるためには”数える”ことが必要であったことに違いはないだろう.

 

 ”数学”を真理や美という言葉を使って美化せずとも,例えば,おやつに夢中になっている子には,

 

「お菓子の”数”が計算できないとおやつをもらうときに損するよ」

 

という一言で片がつくのではないだろうか.

 

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四方山話

 

 何のために数学をやるのかという疑問は実際に数学を生業としている身でもふと頭に浮かぶ時がある.今となっては数学そのものが研究対象となり,数学的な美しさを味わうとか真理の探究とかそういった人間の好奇心と知的欲求が根源となっていることもあるだろう.私はまだまだその域には到達していないので,とにかく論文を書くことが第一義で,そのうちゆっくり自分が知りたいと思うことに近づけていけたらなぁ〜 と夢を見る程度である.

 

 一方,数学が数学として誕生した理由については美とか真理とかそういう飯の種にもならないものではなく,人間が生存していく上での根源的な欲求が元になっていたのだろうとおもう.

 

 想像してみて欲しいのだが,この世から貨幣が消えて(あるいは貨幣の価値が紙切れ同然になったとして)どのように経済が動くかというとやはり物々交換になるだろう(そうなった時に真っ先に食べていけなくなるのは私のような職業だと思うが).

 例えばあなたが,その体力と知恵から狩猟の能力に目覚めたとする.毎日狩りに出かけては家族だけでは食べきれないほどの獲物を獲得することができるようになった.一方,あなたの友人は水泳部で鍛えた体躯と自慢の視力を生かして毎日食べきれないほどの魚を獲得している.

 

 たまには魚も食べたいと思うあなたと,たまには肉も食べたいと思うあなたの友人は物々交換を行うことになった.その時,交換する獲物どうしが”同じ分量である”ことをどのように保証すれば良いだろうか.

 

 現在の社会においては重さとか体積(水に沈めれば測れる=アルキメデスの原理)といった基準を思いつくが,遥か太古,まだ人類が物々交換による社会を構築し始めた頃なら当然問題になるだろうし,一歩間違えれば争い(戦争)になるだろう.当然,何らかの方法で

 

  ”数を数える”

 

という行為が必要になる.獲物をいくつかの塊に分けておいて(見た目で大体の大きさが同じであると判断したとして)その塊がいくつあるかを数えるのである.

 

 単に数を数えるだけでなく,農耕が始まればより多くの収穫を得るために広い土地が必要になるから,何らかの方法で”面積”を測る必要がある(測量と幾何学の誕生).

 

 農耕も,漁も,天候と季節に左右されるから,太陽や月,星の動きを観測して天候を予測できれば食料確保の効率を上げることができる(天体の運動と関数,微分方程式

 

 ある程度経済が発達し,階級社会になれば自らの国家を有利に運営するためにより優秀な数学者や工学者が必要になる.そうなれば数学者も工学者も職を得るために”自分が優秀である”ことを示そうと互いに問題を送り合い,解けるかどうかを競いあう(代数方程式はその典型例であるし,アルキメデスと黄金の王冠は有名な話である).

 

(もちろん以上のことがらについては,何か証拠となる文献を見つけた訳ではなく,私の妄想の域を出ないので,話半分で読んでもらいたいのだが)

 

 結局の所,人間はその存在においてマズロー欲求段階説の枠から逃れることはできないから,数学の誕生もきっと人間の生存に対する欲求とか社会での承認欲求とかが根源となって生まれたのだろうと私は思っている.なんせ我々には108つも煩悩があるのだから.

 

 最初に書いた通り,数学的な美しさを味わうとか真理の探究といったことを否定するつもは毛頭ないし,むしろそのような価値観に基づいて数学的営みを行うことができることは幸せだと思う.私も数学をやっていて,この定理は美しいなぁ〜 と思う定理に出会うこともあれば,自分もいつかこんな論文を書いてみたいなぁ〜 と思う論文に出会うこともある.

 

 しかしながら,数学における美や真理といった価値の一方で,数学そのものの存在価値をそこだけに縛り付けるようなことは,人間の傲慢さの表れではないかともおもう.

 

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数学の勉強方法 -質より量 vs 量より質-

「数学の勉強方法」でネット検索すると、概ね2つの流儀がある

「質より量」派

とにかく量をこなして、基本的な解法のパターンを暗記する。応用問題といえども、基本的なことの組み合わせで解けるから、たくさんの解法のパターンを暗記すれば大抵どうにかなる。

「量より質」派

量をこなすよりも良問をじっくり時間をかけて解く。別解を考えたり、自分で問題を一般化したり、背後にある数学的構造をしらべたり、考え付くありとあらゆることをやってみる。

「このブログの結論」

このブログにも何度か勉強方法について書いている。読んでいただいた方はお分かりかもしれないが、私の結論は、「量から質へ」である。

新しいこと(単元)の学びはじめは言葉の定義はもちろん、基本的な公式や定理を覚える必要がある。だから、とにかく教科書を写し、例題や練習問題をたくさん解いて、内容を暗記し、そして理解するように努める。さらに(もし試験で点をとる必要があるなら)簡単なものについては解法のパターンを暗記しておく。

そうして、基本的なことがある程度できるようになり、だいたい分かってきたら、少しずつ応用問題にうつるが、このときになってから「良問」をじっくり考えるようにすればよいのである。

千里の道も一歩からである。