「εとδと連続と」(大学生向け)
いきなり数学の話から(ε はイプシロンと読み,δ はデルタと読む).
定義:
a を実数とする.f を点 a の周り(近傍)で定義された関数とする.関数 f が点 a において連続であるとは,
任意の正の数 ε に対してある正の定数 δ が存在して
| x - a| < δ を満たすすべての x に対して | f(a) - f(x) | < ε が成りたつことである.
これは大学数学で学ぶ関数の連続性の定義の一つであり,俗に言う「イプシロン-デルタ 論法」である.
この定義の分かりにくさ(すぐに意味がわかった人はこの先を読まなくても良い)について,考えをこの記事に書く.
まずは中学校で習う関数の定義から;
定義:
y が x の関数であるとは,x の値がただ一つに定まったとき,その xの値 に対して y の値がただ一つ定まるときをいう.
記号:この対応を記号 f などでかき,y = f(x) などと表す
2つの定義を見比べると,関数の定義では,
「x が決まる」→ 「y が決まる」
の順番になっている.中学校ですでにこのようにならうので,その後高校の3年間も含めて我々の頭には
「関数について議論するときには,つねにx (独立変数)が先に決まり,その後に y や f(x) の値が決まる」
という順序が刷り込まれてしまっている.
一方,イプシロン-デルタ論法による連続性の定義でまず最初に述べられるのは(どんな(小さな)値にとっても良い) イプシロンである.そのイプシロンが何を決めるかというと,f(a) と f(x) の値の差の大きさである.
それに対して,デルタを(いくつあるかもわからないけど,少なくとも1つ)選んで,x と a との距離が δ より小さくなる”すべての"xについて,f(a) と f(x) の差の大きさがイプシロンより小さくなるようにできるときを,連続であると定義している.
大雑把に言えば;
イプシロン-デルタ論法による連続性の定義は,関数の定義の順
「x (独立変数)が先に決まり,その後に y や f(x) の値が決まる」
とは逆に,f(x) の値を先に制限して,その制限を満たすような x についての条件を述べている;
「f(x) の値を f(a) のどんなに近くに制限しても」
→
「"その制限を満たす入力は |a-x| < δを満たす x すべてである ” ような δがあること」
先に x (="入力")を考えるのではなく,f(x) (="出力")(の制限)を先に考えるというのがポイントのように思う.これさえ気をつければ,あとは時間をかけて考えれば分かるのではないだろうか.
関数が連続であるとはグラフが切れ目なく繋がっていることであるというのも,色々なグラフを描いて考えてもらえば,納得してもらえるだろう.
中学校のときに先生の説明を聞いてからずっと「関数について考えるときは x(についての条件) が先に決まって y(についての条件) が後に決まる」と思い込んでいると,イプシロン- デルタ 論法による連続性の定義は分かりにくい.
今回は真面目な記事でした(他の記事も真面目に書いてるつもりなんだけどね)...
「将来の夢」(証明の話)
子ども:「ぼくね、大きくなったお医者さんになりたいんだ」
お母さん:「そう.だったらたくさん勉強しないとね」
子ども:「どうして??」
お母さん:「だって,お医者さんになるには医学部に行かないといけないのよ」
子ども:「ふーん...( イ ガ ク ブ ってなんだろう)」
お母さん:「医学部に入ろうと思ったら難しいテストに合格しないといけないのよ」
子ども:「そうなんだ!!じゃあぼくたくさん勉強するね」
お母さん:「頑張ってね!!」
子ども:「うん!!」
微笑ましい会話であるが,我々は日常的にはこの「お母さん」のような考え方をしている.
目標(目的)に対して,それを達成するためのプロセスを逆にたどるように考える.今の場合だと
「医師になる」 には 「医学部に入学する」 には 「医学部の入試に合格する」 には 「勉強する」
といった具合である.お母さんが最初に「たくさん勉強しないとね」と言った後に,子どもが「どうして」と聞いたのは,子供にとっては「医師になる」ことと「勉強する」こととの因果関係がわからなかったからである.
数学の証明問題も同じである.証明問題とは,答えが先に書いてあって,その答えに辿り着くまでのプロセスを説明しなさいという問題である.
「学問的に数学を発展させる!!」といった目標の場合はともかく,教科書の証明問題くらいなら,答え(証明すべきこと)が書いてあるのだからそこから逆にたどってどういう条件があれば良いかを考えていけば,大抵は問題文の中にある仮定にたどりつく(だからこそ,問題文をきちんと読んで,仮定されていることが何であるかを確認するのが重要である).
それをまるで「仮定から順に考えて,きちんと正しいことが言えましたよ」と言わんばかりに解答欄に書き連ねれば良い.
まるで数学の教師が
「なぜこんなこともわからないのだ」
と言わんばかりに黒板に書くように....
「これができたら100万円」(ベクトルの話)
司会者:「さあ.今日も始まりましたこれができたら100万円.今日の挑戦者は会社員の A さんです.」
A さん :「頑張ります!!」
司会者:「それでは今日のチャレンジを発表します.それはこちら:」
”今あなたの足元にある丸印からちょうど 10km の地点に賞金100万円の入った箱が隠されています.それを見つけてください.ただし,制限時間は 2 時間で,自力での歩行と走行以外の移動手段(自転車,バイク,自動車など)は使ってはいけません”
司会者:「用意はいいですか??」
A さん:「はい」
司会者:「それでは.スタート!!」
このチャレンジは成功するだろうか.運が良ければ A さんは100万円を手に入れるかもしれないし,そうでないかもしれない.なぜ「確実に手に入れられないか」というと,10km の地点ということは,候補となる地点は半径 10km の円の円周上の点だから(円周率の近似値を 3.14 として)
10 × 2 × 3.14 = 62.8 (km)
の距離をくまなく探さなければならい.Wikipeda によれば男子マラソンの世界記録は2時間2分57秒だから,「箱を探す」時間を考慮に入れて ”確実に” 見つけることはできないだろう.
これが ”チャレンジ” として成立する理由は,100万円の隠されている場所までの「距離」は示されているが「方向」が示されていないからである.
物事を伝えるとき,特に,どこに何があるかを伝えるのに方向は大事である.
例えば,道を聞かれて「その店なら大体ここから100メートルくらいですよ」とだけ答える人はまずいない.大まかな距離(かかる時間)も大事だが,方角や道順といった情報はこの場合もっと大事である.
「大きさ(この記事の例えでは”距離”)」と「向き(方角,方向)」が合わさって初めて情報として意味を持つものはたくさんあって,我々は日常的かつ無意識にそのような情報のやり取りをしている.
数学では,それをベクトルという.
「大きさと向きをもつ量をベクトルという」
********************************************************************************************
「大きさ」と「向き」はそれぞれ別の情報で,状況に応じてどちらが大事かは変わるよね.特に
”場所” = "座標"
の情報を伝えるときは,
"大きさ" と "方向"
が両方とも大事だよね.だから両方の情報を表す記号をつくらないと....
えーっと... とりあえず日常的に方向を示す時は矢印("→”)を使ってるから,文字の上に上に矢印を付けて
”この記号は「大きさ」だけじゃなくて,「方向」も情報として持ってますよ”
ってことにしよう!!
(数学者:いちいち矢印かくのめんどくさい.... 今議論してることの内容
がちゃんとわかってれば伝わるからさ,なくてもいいよね....)
************************************************************************************************
多分こんな感じで今の記号になったんだと思う(妄想)...
追記:
数直線の上だと,絶対値が原点からの距離(=”大きさ”)で,符号 ”+ , -” が向きを決めている.つまり,実数 x が一つ与えられたとき, x は,その絶対値 |x| を "大きさ",符号を ”向き” とするベクトルと考えることができる.
絶対値だけだと
「その店ならこの1本道をまっすぐ行って100メートルくらいですよ」
と言われてどっちに進むかを知らされていない状態である.やはりこの場合も,右か左か(あるいは前か後ろか)という情報が加わって初めて(道案内としての)意味を持つ;
「その店ならこの道を右にまっすぐ行って100メートルくらいのところですよ」という具合である.
符号は数直線上で原点を起点にした”左右”という”向き”の情報である.こうして考えると,上に書いた通り,実数をベクトルとして考えるこができるのである.
平面座標の場合,極座標表示: 「x = r cos θ, y = r sin θ」を考えると r が原点からの距離,θ が方向を表しているというのがよく分かる.だから,r だけの情報では「その店はここから 100メートルぐらいですよ」とだけ言われているのと同じである.θ の情報を加えて初めて距離(大きさ)と方向(向き)が決まる.
r と θ の両方が決まるためには x と y の両方が決まっていないといけない.逆に,r と θ が決まれば x と y が決まる.これは平面上の1点 (a,b) は 原点を始点,点 (a,b) を終点とするベクトルとみなせることを意味する.
すなわち,実数 a と b が決まれば,平面上の点 (a,b) までの
「原点からの距離」=「大きさ(長さ)」= r
と
「偏角」=「方向(向き)」= θ
が定まるから,(a,b) という表記を
「大きさ」と「向き」を持つ量 = 「ベクトル」
の表し方の一つと考えることができる.ベクトルの成分表示の記法が座標の表示 (a,b) と同じ記法であるのはこのような事情による(のだと思う).
「なぜ私と付き合おうと思ったの?」(”ある” と ”任意の”)
正しいと思う答えを選べ
1「君じゃなきゃだめなんだ」
2「誰でもよかったんだ」
2は修羅場を招く.今の関係を続けたいと思う限りはどう考えても1が正しい(別れ話の最中なら2が正しい場合もあるかもしれないが).
「方程式 x - 1 = 0 の解は x = 1 である」
というのは
「x-1 =0 が成り立つためには xは1じゃなきゃだめなんだ」
(正確には,x = 1 であることが必要かつ十分)
という意味である.
「 (x+1)^2 = x^2 + 2x + 1 が成り立つ」 ("x^2" は x の2乗の意味)
というのは,
「 x はどんな数でも(誰でも) (x+1)^2 = x^2 + 2x + 1 が成り立つ」
という意味である(このような式を (x についての)恒等式という).
数学では,その事柄(定義,定理,命題,及びそれらを構成する数式や文章)がある特別なものについて成り立つことを述べているのか,あるいはどんなものについても成り立つことを述べているのかを注意する必要がある.
特別な何かについて成り立つ場合には「ある x について...」とか「ある x が存在して...」 などと書くことが多い.そうではなく,なんでもよい場合には「任意の x について」とか「どんな x に対しても...」などと書くことが多い.しかし,中学や高校の教科書では省略されている場合がある.
数学を学ぶときには,「ある〇〇について」成り立つのか「任意の〇〇について」成り立つのかを注意深く読み取るようにすれば理解が進みやすい.
だって,自分のパートナーに「誰でもよかった」と言われるのか「あなたじゃなきゃだめなんだ」と言われるのかでは全然違うでしょ.それは数学においても同じだよ
というお話...
「運命の相手は誰だ」(解の存在を知ることと,解の性質を調べること)
ここに二人の占い師がいる
占い師 A :
「私はあなたにとって運命の人が存在するかどうかを占うことができる.ただし,運命の相手はあなと相性の良い相手のことだから,複数かもしれないし一人かもしれない.恋愛の対象となる人かもしれないし人生を学ぶ師となる人かもしれない.それは私には分からない」
占い師B:
「私はあなにとっての運命の人が存在するならば,それがどういう人で,どのように出会うかを占うことができる.その人があなたにとって幸せな生活を共に送るパートナーとなるべき人で今日帰りの電車で出会うのか,一生を通じてお互いに楽しい時間を共有することができる親友となるべき人で明日の花見で出会うのか,あるいはあなたがこれまでとこれからの人生において成し遂げることの後継者となるべき人で20年後にあなたの会社に新入社員として入社する人物なのか.... ただし,私はそういった人が本当に存在するかどうかを占うことはできない」
どちらか一人にしか占ってもらえないと言われればどちらを選ぶだろう??
もちろんどちらも大事な情報だから,両方の占い師に占ってもらえるならばそれにこしたことはない.
高校数学の「2次方程式と2次関数」で問題となる ”実数解の存在” とか ”解の性質”とかいうのは,"存在するかどうか" を調べる,あるいは ”どのような” 解かを調べるというごく自然な興味によるものである.
運命の人については存在するかどうかもどのような人であるかも知りたいと思うが,
これが方程式の解などといった数学的な対象となるといまひとつその重要性が分からない.
だから例え話を書いてみた.....
「必要か十分か」それが問題だ(命題と条件)
料理について述べた文章について次のうち,どちらが正しいか.
1.「ビーフカレー」ならば「牛肉が使われている」
2.「牛肉が使われている」ならば「ビーフカレー」
2は正しくない(数学的な正しさ "真偽" ではなく,生活していく上での”常識的な”正しさに照らし合わせればの話である).
高校の教科書には多くの場合,次のように書いてある;
「数学的に真偽(正しいか間違っているか)が定まる文章や数式を命題という」
「命題 ”p => q” が真のとき,p は q であるための十分条件といい,q はpであるための必要条件という」
( => は「ならば」と読む)
最初の問いかけで言えば,
p = 「ビーフカレー」, q = 「牛肉が使われている料理」
とすると
「牛肉が使われている料理」であることは「ビーフカレー」であるための必要条件となる.つまり,
「ビーフカレーを作るには材料として牛肉が必要だよね」
というだけの話.逆に
「今日はなんだか牛肉が食べたい気分.牛肉を使った料理って色々あるけど,とりあえず作るの簡単だし冷蔵庫の残り物も使えるからビーフカレーで十分だよね」
という会話を妄想すれば,"必要" 条件 とか "十分" 条件 とかいう言葉の意味を間違えないと思う.
別の覚え方としては,
「矢の先は必要」
→
「矢(武具としての矢)の先端(矢尻)がないと敵は倒せない.だから矢("=>")の先は必要」
というのがある.
この記事の内容だけでは決して「十分」ではないけれど,誰かの役に立ちますように...