数学の研究の話

 

 多変数複素関数論のほとんどを独力で築きあげた岡潔先生は「数学の研究は農業に似ている」と述べらている.「農業では成長する力は種の方にあって人間はせっせと世話をする.数学も同じで,成長する力は問題の方にあるから,これという問題を決めたら後はせっせと世話をすれば良い」といった趣旨のことを書かれている.

 始めて読んだ時は,確か大学院生の時だったと思うが,この言葉の意味は全くわからなかった.大学院生くらいだとなんとか論文を書くことしか頭になくて余裕がなかったからかもしれないし,まだまだ人間ができていなかったからかもしれない.

 最近になってようやく,なんとなくではあるが自分なりに

 

  「数学の研究は農業に似ている」

 

 という岡先生の言葉の意味を噛み砕くことができてきたように思う.

 

 まず,”問題” というのは,受験問題や定期テストの問題ではなく(当たり前!!),自分が不思議だなぁ〜 とか なぜこうなるのだろう とか 思った疑問のことである.その疑問を解決するために,あれこれと勉強し,そのうちになんとか手がつけられそうな問題を指導教員の先生からもらったり,運が良ければ自分で見つけることができたりして論文が書けるようになる.そしてそうこうしているうちに,初めに自分が疑問に思ったことをぼんやりと考え始めて,少しずつ解決の糸口が見つかる.... 

 

 あれこれと勉強する期間や,とりあえず手のつけられそうな問題を解くというのは,自分の中の畑を耕すこと,自分が初めに疑問に思ったことを考え始めるのはずっと温めていた疑問の種を植えることができるくらいに自分の中の畑の土が柔らかく十分に空気と水分を含んだ状態に耕されたこと,そして考え始めて自分なりにあれこれやってみるというのが水や肥料を撒いたり草むしりをしたりすること,解決の糸口が少しずつ見えてくるというのは芽が出て成長してきたこと,わかったという喜びは花が咲くこと,  そして研究発表したり論文になったりするのは実がなって収穫の時期が来たということであるのだと思う.そしてその実そのもの,あるいはその実をつけるまでの過程で,その問題の周辺に出てくる疑問や新しい問題はまた別の種となるから,それをまたあたためて,その種を植えるために別の場所を耕して......

 

 足立幸信先生 Amazon CAPTCHA によれば,数学の研究においては自分の中の数学的自然を育てるのが大事であるとのことである.

 

 この言葉の私なりの解釈は,畑を耕し,あちこちに植えた疑問の種をせっせと世話していると,また新しい種ができて,それをまた畑を耕すところから始めて... とそうこうしているうちに,自分の中の畑がどんどん広がって,たくさんの芽が出て,花や実があちこちにできているような状態のことなのだろうと思う.そしてたくさんの花と実は,自分の中の畑の自然を豊かにする.

 もちろん,そうなるまでに全く芽が出なかったり,途中で枯れてしまったり,最後の最後で花が咲かなかったり,実がならなかったりする問題はたくさんある.勘のいい人はうまく芽が出て成長しそうなものを選びとってできるのだろうが,なかなかそうはいかない.それでも,とにかく手当たりしだいに種をまいて世話をするしかないのだろう(足立先生は犬棒式と表現されている).そういえば指導教員の先生にも,1000 本の論文に目を通し,そのうちの100 本を精読して,またその中の10本について自分なりに計算をして,そしてその10本のうちの1本の論文の中から新しい問題を見つけて結果を出すことができればかなり確率がよい方だと言われたことを思い出す(要はもっと論文を読みなさいというお叱りを受けたわけであるが,私が傷つかないように言葉を選んでくださったのである).

 その一方で,一つの種がぐんぐん成長して大樹となり,たくさんの花や実をつけることもあるのだろう(できればそんな研究がしてみたいと思う).

 気が遠くなる話ではあるが,中にはよく育つ種を見分けることができる勘の良い人というのがいるので,そういう人と話をしてアドバイスをもらったり,あるいは共同研究ができたりする人は運が良い.そして今思えば,私自身もこうした運に恵まれてきたと思う.

 

 私が始めて数学を面白いと思ったのは大学2年生のことで,そして,これは面白い!!なぜこんなことになるのだろう??どうしたらこんなことがわかるようになるのだろう??と思うことに出会ったのはだいたい大学の3年生くらいのことである.

 

 最近,ようやくその頃に疑問に思ったことについて,色んな人の助言やアドバイスをもらいながら,そして共同研究者の方々の力も借りながら研究ができて,ポツポツと論文が書けるようになってきている.始めて疑問に思った時から数えるともう15年くらいの月日が経っている.

 

 桃栗三年柿八年. 気が長い話である.

 

追記1: 

足立先生も同じ趣旨のことを述べられているが,わからないことや疑問に思うことは自分の中の自然を成長させるための種である.だから,わからないからやめてしまうとか,わからないからやらないのではなく,わらかないことをたくさん自分の中の畑の横の物置小屋にしまっておいて,時々触ってみたり,ためしに幾つかを水につけて芽が出ないか観察したりする方が良い.そうこうしているうちに,その種を植えるのに最適の季節となり,その時に自分の中の畑が十分に耕されていれば,その時がわかる時である.

 

注意:

初めて他の方の言葉や書籍を引用したが,基本的に敬称は”先生”をつかうことにした.

 

追記2:

数学的自然の”数学”のところを変えて,”〇〇的自然” (音楽的自然とか,芸術的自然とか)と思うと,岡先生や足立先生の言葉は,人間の営みのうち,欲求段階の上位にくるような,自己実現に関わるものについてかなり真理に近い言葉ではないかと思っている.

 

追記3:

最終的には,そうして育てた自分の中の〇〇的自然を自分自身で眺めながら,よくもまぁここまで育てたなぁ とおもえればそれで幸せなのかもしれない.

 

追記4:

自分の中の畑で,花が咲くとか実がなるとかいうことがどういうことに対応するかは,対象となる事柄や,状況によっても違うだろうし,人によっても違うだろう.

 私の場合は研究と教育が主な仕事なので,研究者の立場からすれば上に述べたように論文が書けるというのが成果の一つである.そうでない人の場合でも,例えば小学生や中学生なら,できないことができるようになったとか,わからないことがわかったとか,そういう一つ一つの経験がその人の中の畑に咲いた花であり,実であるのだと思う.

 私のもう一つの仕事である教育について,”教育者としての自然”がどういったことで,なにを成果とするかについては,まだよくわかっていないから,もう少しあたためておいて,わかる時が来るのを待つことにする.

 

追記5


とりあえず論文がかけそうなことをやるというのは咎められるようなことではない。それは、自分の中の畑を耕す時期であると思っておくのがよいだろう。本当にやりたいことには、自分の中の畑を十分耕してから、じっくり取り組めばよいのである。

 

 

 

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