ビリーズブートキャンプ

○○しない数学(計算しない数学とか、暗記しない数学とか、論理のいらない数学とか、、)という言葉には、楽して痩せるとか、飲むだけで痩せるとか、食べても太らないとか、そういう謳い文句に近いいかがわしさを感じるのは私だけだろうか。

数学の啓蒙としてはよいし、専門的な内容に入る前に、何が問題で何が面白いのかを、あまりむつかしいこと(計算とか、論理とか、暗記とか)は抜きにして、こんなこともある、あんなことも面白いと紹介するにはそれでよいだろう。

しかし、いざ実際に数学的な結論を確かめたり、自分で数学をやってみようという場合には、基本的な公式や定理は暗記している必要があるし、計算力も論理も必要である。

ビリーズブートキャンプは、痩せるためには自分と戦って打ち勝たなければならないという、当たり前の事実を、実践的なメソッドとともに強烈なキャラクターでうったえて大ヒットした。

数学を啓蒙する場合にも、面白さや楽しさはもちろん、それに加えて、実際に数学を学ぶにはやっぱり論理も計算も公式の暗記も必要だよと伝えた方がよいと思うのだが。

 

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数学を学ぶ上で大事なこと

かつて名古屋グランパスエイトを率い、現在はアーセナルで指揮を執るアーセン・ベンゲル監督は、サッカーにおいて大事なことは何かという質問に、「サッカーにおいて、最も重要なのはバランスである。そして、それは人生においても同じである」と答えている。

数学も同じである。数学的な美を感じとる心、真理を探求したいという欲求、わかったという喜びを味わうことができる情緒、、、加えて、数学をおこなうための論理、実際に結論を確かめるための計算、、、

それだけでなく、えらい先生方が様々な書籍で述べられているたくさんの要素が、バランスよく均衡を保っていることが大事である。

人によって違いがあるとすれば、様々なことを身につける時期だろう。

幼少気に数学の面白さに魅了された人がそれから計算や論理を身につけるのか、学校教育の中でなんとなく身につけた計算や論理の力をもつ人がふとしたきっかけで数学の面白さに魅了されるのか。

人それぞれであるが、どの要素よりもどれが大事であるなどということはない。

すべてはバランスである。

追記

教育の観点からは、どの時期にどのような経験をするべきかということの優先順位はあるだろう。

幼少気には自然を相手に遊び、小学校低学年くらいでは基本的な四則演算を学び、専門教育(大学)の前に学んだことを生かして素早く正確に問題を解く訓練(受験数学)をする、といったことである。

何かと批判されることもある日本の数学教育だが、私は良くできていると思っている。

 

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数学をたのしむ

古典落語を楽しもうと思えば、噺を聞くだけでもよいが、噺の時代背景や前提となる人々の日常の営みを知っている方がより楽しむことができる。クラシック音楽を楽しもうと思えば、演奏を聞くだけでもよいが、その曲が作曲された時代背景や当時の状況、作曲家の生き様・死に様を知っている方がより楽しむことができる。

数学をたのしむには、直感に反する事実を知ったり、美しい幾何学模様を鑑賞するのもよいが、それらがいかにしてうみだされたかという数学的背景と、それに至る理論や計算過程を知っている方がより楽しむことができる。

直感に反する事実を不思議におもったり、美しい幾何学模様を美しいと思う、そういった心や情緒はその人を数学に向かわせる動機を生み出す原動力として必要かつ重要であるが、そこから先へは、やはり数学という言葉の作法 - 計算や論理 - を知らないと踏み込めない。

クラシック音楽の演奏を聴いてよしとするか、自分もやってみたいと思うかはひとそれぞれであるように、数学も人それぞれではあるが。

 

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数学という文化

山口昌哉先生は、「数学がわかるということ 食うものと食われるものの数学」のなかで、数学は文化であると述べられている。

例えば、日本中の美術館の絵画をぜんぶ燃やしても良いかと聞かれれば、絵画に詳しくなくても、一度も美術館に足を運んだことはなくても、それはダメなことだと思うだろう。文化とはそういうものだと思う。

例えば、数学が嫌いな人でも、学校で全く算数や数学を教えなくても良いかと聞かれれば、やはりそれはダメなことだと思う(そうであってほしい)。

日本人は日本という社会と国家と文化の中に在って、日本の部分であるといえる。
例えば、1年後に、日本列島が無くなるとする。そこで、国連が日本列島と全く同じ面積の人工島と必要なだけの資金を用意して、日本にすむすべての人が移住できる島を作るように、日本政府に要請したとしよう。
おそらく、その人工島にできる街や人々の営みは、日本人が計画し、日本人が造るものである以上、「日本の文化」を反映したものになるだろう。電車もバスも正確で、家屋も、公共施設も、すべてが日本人が使いやすく、慣れ親しんだものになる。このことは、例え日本列島という「日本の文化の入れ物」がなくなっても、人々が日本の中に暮らし、日本の部分であると同時に、その人々の中にも日本の文化全体が含まれているということである。これは、日本に限らずとも、韓国でもアメリカでもイタリアでも、どの国と文化についても言えることだと思う。エドガール・モランのいう複雑性 - 全体は部分を含み、部分はまた全体を含む - ということの一例である。


数学という文化をその個人の中に含む人が、社会のなかで活躍する、数学を学んだ人がそういうひとで在ってほしいと思うし、そういう人を社会に輩出できるような教育ができればと思う。

 

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数学的自然について

私もまだまだきちんとわかっていないのだが、数学的自然が自分の中の畑に育っている状態とは、それはそう考えたら良さそうだね とか そういうものを扱うのは確かに良さそうだね とか思うことではないだろうか。

私の場合だと、


それはそう考えたら良さそうだねと思えたこと

関数、ベクトル、複素数微分積分、etc...


思えなかったこと(何でそんなことを考えるのか、なぜ大事なのかわからなかったこと)

数列、高校の平面幾何、確率や場合の数 etc...


である。

数列なんて、最近ようやく そう考えたら良さそうだね と思えてきたくらいだし、平面幾何にいたっては、いまだによくわからない(中学校の合同と相似の証明とかは大好きだったのだが...)

学校教育では、小学校で習うことは、中学校で習うことが "自然" に感じるような内容になっているし、中学校での内容は、高校で習うことが "自然" と感じるような内容になっている。

積み重ねとは、まさにこのことだろう。だからといって、全部わかっていないと先に進めないかというと、そんなことはなくて、とりあえず「そういうものだ」と思って進んでいるうちに、後からわかることもあるから、諦めずに、わかるときがくるまで、わからないという種をあたためておくことである。

 

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数学の研究の話

 

 多変数複素関数論のほとんどを独力で築きあげた岡潔先生は「数学の研究は農業に似ている」と述べらている.「農業では成長する力は種の方にあって人間はせっせと世話をする.数学も同じで,成長する力は問題の方にあるから,これという問題を決めたら後はせっせと世話をすれば良い」といった趣旨のことを書かれている.

 始めて読んだ時は,確か大学院生の時だったと思うが,この言葉の意味は全くわからなかった.大学院生くらいだとなんとか論文を書くことしか頭になくて余裕がなかったからかもしれないし,まだまだ人間ができていなかったからかもしれない.

 最近になってようやく,なんとなくではあるが自分なりに

 

  「数学の研究は農業に似ている」

 

 という岡先生の言葉の意味を噛み砕くことができてきたように思う.

 

 まず,”問題” というのは,受験問題や定期テストの問題ではなく(当たり前!!),自分が不思議だなぁ〜 とか なぜこうなるのだろう とか 思った疑問のことである.その疑問を解決するために,あれこれと勉強し,そのうちになんとか手がつけられそうな問題を指導教員の先生からもらったり,運が良ければ自分で見つけることができたりして論文が書けるようになる.そしてそうこうしているうちに,初めに自分が疑問に思ったことをぼんやりと考え始めて,少しずつ解決の糸口が見つかる.... 

 

 あれこれと勉強する期間や,とりあえず手のつけられそうな問題を解くというのは,自分の中の畑を耕すこと,自分が初めに疑問に思ったことを考え始めるのはずっと温めていた疑問の種を植えることができるくらいに自分の中の畑の土が柔らかく十分に空気と水分を含んだ状態に耕されたこと,そして考え始めて自分なりにあれこれやってみるというのが水や肥料を撒いたり草むしりをしたりすること,解決の糸口が少しずつ見えてくるというのは芽が出て成長してきたこと,わかったという喜びは花が咲くこと,  そして研究発表したり論文になったりするのは実がなって収穫の時期が来たということであるのだと思う.そしてその実そのもの,あるいはその実をつけるまでの過程で,その問題の周辺に出てくる疑問や新しい問題はまた別の種となるから,それをまたあたためて,その種を植えるために別の場所を耕して......

 

 足立幸信先生 Amazon CAPTCHA によれば,数学の研究においては自分の中の数学的自然を育てるのが大事であるとのことである.

 

 この言葉の私なりの解釈は,畑を耕し,あちこちに植えた疑問の種をせっせと世話していると,また新しい種ができて,それをまた畑を耕すところから始めて... とそうこうしているうちに,自分の中の畑がどんどん広がって,たくさんの芽が出て,花や実があちこちにできているような状態のことなのだろうと思う.そしてたくさんの花と実は,自分の中の畑の自然を豊かにする.

 もちろん,そうなるまでに全く芽が出なかったり,途中で枯れてしまったり,最後の最後で花が咲かなかったり,実がならなかったりする問題はたくさんある.勘のいい人はうまく芽が出て成長しそうなものを選びとってできるのだろうが,なかなかそうはいかない.それでも,とにかく手当たりしだいに種をまいて世話をするしかないのだろう(足立先生は犬棒式と表現されている).そういえば指導教員の先生にも,1000 本の論文に目を通し,そのうちの100 本を精読して,またその中の10本について自分なりに計算をして,そしてその10本のうちの1本の論文の中から新しい問題を見つけて結果を出すことができればかなり確率がよい方だと言われたことを思い出す(要はもっと論文を読みなさいというお叱りを受けたわけであるが,私が傷つかないように言葉を選んでくださったのである).

 その一方で,一つの種がぐんぐん成長して大樹となり,たくさんの花や実をつけることもあるのだろう(できればそんな研究がしてみたいと思う).

 気が遠くなる話ではあるが,中にはよく育つ種を見分けることができる勘の良い人というのがいるので,そういう人と話をしてアドバイスをもらったり,あるいは共同研究ができたりする人は運が良い.そして今思えば,私自身もこうした運に恵まれてきたと思う.

 

 私が始めて数学を面白いと思ったのは大学2年生のことで,そして,これは面白い!!なぜこんなことになるのだろう??どうしたらこんなことがわかるようになるのだろう??と思うことに出会ったのはだいたい大学の3年生くらいのことである.

 

 最近,ようやくその頃に疑問に思ったことについて,色んな人の助言やアドバイスをもらいながら,そして共同研究者の方々の力も借りながら研究ができて,ポツポツと論文が書けるようになってきている.始めて疑問に思った時から数えるともう15年くらいの月日が経っている.

 

 桃栗三年柿八年. 気が長い話である.

 

追記1: 

足立先生も同じ趣旨のことを述べられているが,わからないことや疑問に思うことは自分の中の自然を成長させるための種である.だから,わからないからやめてしまうとか,わからないからやらないのではなく,わらかないことをたくさん自分の中の畑の横の物置小屋にしまっておいて,時々触ってみたり,ためしに幾つかを水につけて芽が出ないか観察したりする方が良い.そうこうしているうちに,その種を植えるのに最適の季節となり,その時に自分の中の畑が十分に耕されていれば,その時がわかる時である.

 

注意:

初めて他の方の言葉や書籍を引用したが,基本的に敬称は”先生”をつかうことにした.

 

追記2:

数学的自然の”数学”のところを変えて,”〇〇的自然” (音楽的自然とか,芸術的自然とか)と思うと,岡先生や足立先生の言葉は,人間の営みのうち,欲求段階の上位にくるような,自己実現に関わるものについてかなり真理に近い言葉ではないかと思っている.

 

追記3:

最終的には,そうして育てた自分の中の〇〇的自然を自分自身で眺めながら,よくもまぁここまで育てたなぁ とおもえればそれで幸せなのかもしれない.

 

追記4:

自分の中の畑で,花が咲くとか実がなるとかいうことがどういうことに対応するかは,対象となる事柄や,状況によっても違うだろうし,人によっても違うだろう.

 私の場合は研究と教育が主な仕事なので,研究者の立場からすれば上に述べたように論文が書けるというのが成果の一つである.そうでない人の場合でも,例えば小学生や中学生なら,できないことができるようになったとか,わからないことがわかったとか,そういう一つ一つの経験がその人の中の畑に咲いた花であり,実であるのだと思う.

 私のもう一つの仕事である教育について,”教育者としての自然”がどういったことで,なにを成果とするかについては,まだよくわかっていないから,もう少しあたためておいて,わかる時が来るのを待つことにする.

 

追記5


とりあえず論文がかけそうなことをやるというのは咎められるようなことではない。それは、自分の中の畑を耕す時期であると思っておくのがよいだろう。本当にやりたいことには、自分の中の畑を十分耕してから、じっくり取り組めばよいのである。

 

 

 

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四方山話3


結局のところ、数学を学ぶ意味とか数学の学問的価値を、ある特定の方向に意味付けすることは、その意味に価値を見いだせない人を数学から遠ざけるだけでなく、ともすれば、その意味に沿わない数学的営みを生業としている人の仕事を否定することにもなりかねない。

それは、数学から人々を遠ざけるだけでなく、数学の裾野を狭める方向に働くだろうとおもう。

もちろん、数学そのものがもっている真理や美といったことに数学をやる意味を見いだすことは大事だが、鉄道の運用システムの開発とか、天気予報のための数値計算とか、効率的な水道管の配置のためのアルゴリズムとか、数学が重要な役割を果たしている事も、数学の在りかたのひとつとして語られるべきだと思う。逆に、役に立つとか、これこれの応用があるとか、そういったことだけに数学の在りかたを意味付けることもまた同じである。

なにをするにも、バランスが大切てある。