数学の勉強方法 -補足-
前の記事で、文章題の練習には新聞記事を要約するのがよいとかいた.
少し補足すると、数学の文章題を解くには、導きたい答えを導くために,文章中の必要な情報 "だけ" を読み取る(不必要な情報を頭の中から蹴飛ばす)必要がある.
例えば植木算なら,植えられるものが植木だろうと,チューリップだろうと,長さ1の線分だろうと,でてくる数値は同じである.
そもそも,地面に植えなくてもただ点を直線の上に並べると言い換えてもよい.
文章を読んで,その文章が伝えたいことを伝えるために不必要な情報を削ぎ落とし,必要な情報だけを抜き出すには既に短くまとめられた新聞記事をさらに要約するというのがよい練習になる(と思う).
数学の勉強方法 -再考-
大事なことなのでもう一度.
数学は自然科学の言葉である.だから数学を勉強する時には,”数学という新しい言語” を学ぶつもりでやるべきである.まずはお手本(教科書)をノートに写す.
定理や公式はなぜ成り立つのかを写しながら考える.定理なら,それぞれの仮定は証明のどの部分で使われているのかを考える.公式ならなぜこのような式変形が必要なのか考えながら導出の過程を写す.
次に,具体的な例ではどのように使えるのかを計算する.そして練習問題や例題を何度も解く.
この順番は入れ替わっても良い.先に例題や練習問題で公式を試してみてからその公式の導出の過程を考えながら写しても良いし,定理を使って例題や練習問題を解いてから証明の内容を写すようにしても良い.各自がやりやすい順番でやるべきである.
少しずつ応用問題にうつる.わからなければ躊躇せずに解説(日本語の説明や図、グラフなどを含む完全な解答)をノートに写す.そしてやっぱり問題文の仮定がどこで使われているのか,これまでに学んだ公式や定理がどこで使われているのか,別解はないか、、、など思いつく限りのことを考える.そしてわかったと思ったら,一旦別のことをして,しばらくしてからもう一度解いてみる.できなければまた解説を写す、、、を繰り返す.
算数,数学に限らず,計算問題は練習あるのみである.
文章題については算数でも,中学校・高校の数学でも,4つの段階があることに注意 することが大事である.そして,どの段階でできていないのかによって勉強の方法が異なる.
1.文章題の文章の意味を理解できているか
2.文章題の仮定から結論を導くのに必要な式(方程式など)を書くことができるか
3. 2で作った式を計算して答えを導くことができるか
4. 問題文で聞かれていることに対して,正しく(必要なら単位をつけて)答えを書くことができているか
2,3,4,はその子の書いた答案を見れば一目瞭然である.1.は答案を見ただけではわからない場合が多いが,問題文の状況を絵に描いて説明してもらえばできているかできていないか大体判断できる.
私の経験からすれば,文章題が苦手な小学生,中学生のうち 70% から 80% くらいは1の「文章題の文章の意味」が理解できていない.そういう学生たちが,学年が上がり,高校の数学を学ぶようになったからといって,いきなり”数学という言葉”で書かれた文章を理解できるようにはならないし,むしろもっとわからなくなる.
話を戻そう.そもそも,3ができなければ応用問題よりまず計算問題を練習させるはずだし,4は単なる注意力不足だから特に問題にしなくて良い.
2.は,1ができていてはじめて問題となるが,これは初めに書いたように”数学という言葉”に慣れる,あるいは ”算数という考え方に慣れる” 他ないから何度も正しい考え方を聞いて,ノートに書き写して,考えて、、、 を繰り返すしかない.
では,1ができていない場合はどうするかというとこの場合はそもそも”日本語の力”の問題であるから数学をやるよりも文章を読む練習をする方が良い(ただし,”国語の力”ではない).
日本の学校教育における初等学年での国語教育は,”作者の気持ち” とか "登場人物の心のうごき" に偏りすぎている(それも重要だがやはり”偏りすぎている”ように思う).
数学や算数の文章題で
" 鶴と亀の頭と足の総数が数えられるなら, はじめから別々に数えられるはずなのに, そうしなかった人はどんな気持ちだったのか"
とか,
”植木を植えるのに, その間を数えて人はどのように感じるか”
とかを考える必要はない(だから植木が杭に変わっても,亀が犬に変わっても関係ないし, もっと言えば 2 と 4 が書かれたカードの枚数と書かれている数字の和でもよい).
文章にある事実をそのまま事実として捉え,何がわかっていて(仮定),何がわかっていないのか(聞かれていること,結論)をきちんと把握することである.
以上の理由から,私が塾で教えていた時,文章題が苦手な子には,
「毎日,新聞記事で気なったものについて,できる限り簡潔に要約を書く」
という宿題を出していた.
その子はスポーツが好きだったから,毎日スポーツに関する記事について,何が起こって結果どうなったかを纏めてくれた.
その後(数字で測ることはできないが,多分)その子は文章題に強くなったと思っている.
ポイントは,”気持ち”とか”心の動き”といった書かれていないことを想像するのではなく(たとえ書かれていても,もしそれらが記事で伝えたいことと関係が無いか,関係が薄い情報である場合はすべて削ぎ落として),書かれている事実を”可能な限り簡潔に”まとめることである.
だからこの宿題については,常に”もっと短く,簡潔に要約できないか”という視点で添削を行う.
国語の作文や感想文では,自分がどう考えたかを豊かな日本語の表現によって,それなりに分量のある文章で述べる必要があるが,それとは真逆である.だから”国語の力”ではなく,”日本語の力”とかいた.
そもそも新聞の記事は,事実を限られた紙面で簡潔に伝えるように書かれているから,それをさらに要約するのは意外と簡単なことではない.
時間はかかるが,ここに書いた方法以外に数学や算数が苦手な人が克服する方法はないと思っている.
「想像と現実の間で」(役に立つ数学はどのようにして生まれるのか - 複素数の話 - )
あなたは
子供のころ,有名になった時のためにサインを書く練習をしたことはあるだろうか
ヒーローインタビューで何を答えるか想像したことはあるだろうか
宝くじで1等が当たったらに何に使おうか考えたことがあるだろうか
いずれも実際にそうなるかはわからないし,現実のものになるとしてもそれは同じような想像をしている沢山の人の中のごく少数だろう.
しかし,もしサインの練習をしている子供が,大リーグで誰よりも沢山ホームランを打つという想像を実現すれば,多くの人に勇気を与えることになるかもしれないし,宝くじが当たったら親を亡くした子供たちのために基金を設立したいと想像している人が,現実に宝くじに当たったら多くの子供達が助かるだろう.
数学の研究の成果というのは,
現実にはいったいいつ,何のために役に立つのかわからないこと
のオンパレードである.その一方で,”いったいいつ,何のために役に立つのかわからないこと” の幾つかは,あるときからこんなことにも役に立つ,あんなことにも役に立つとどんどんわかってきて,ついには「この理論は大事だから是非若いうちに学習するべきだ」となって教科書に掲載される.
まるで,将来に備えてサインの練習をしている沢山の子供達の中から,世界を魅了するスーパーヒーローが誕生するかのごとくである.
虚数や複素数もそうした ”スーパーヒーロー” である.”スーパーヒーロー” であるがゆえに,ちょっととっつきにくかったり,癖があったりするかもしれないが,根気よく付き合っていればきっと仲良くなれる.
歴史的な始まりは3次方程式の解の公式において,”2回掛け算して負の数になる数” をどうしても考えなければならないということが発表されたことである(カルダノの公式).その後,いろいろと発展を遂げて ”複素数はいろいろと応用もあってすごく大事だ” ということがわかり,高校の教科書に掲載されている.
虚数は英語で
Imaginary number = 想像上の数
複素数の意味はもともと
”2つの異なる単位を持つ数の組み合わせ”
という意味のようである.今日に至っては,複素数といえば
”実数” と ”純虚数”
の組み合わせのことをいうことになっている.
他にも数学の世界では,”2つの平行線は交わらない” ということが成り立たない世界での幾何学とか,複素数をさらに拡張した”4元数” といったものまである.
いずれも
現実にはいったいいつ,何のために役に立つのかわからないこと
であったが,今となっては物理的に重要であることがわかったり,世の中の科学技術を支える上で役に立っていたりする(らしい).
ちなみに,ゼロ ”0” や ”負の数” といったものも発見された当初は
”現実にはいったいいつ,何のために役に立つのかわからないこと”
であったようである.
だから,”役に立つ研究” というのは,”結果的に役に立つと後からわかった研究成果” のことであって,”役に立つことが確約されていた研究” ではない.
したがって ”役に立つことが確約されている研究をせよ” といわれてもそれはなかなか難しい(これはただの愚痴ですね.... ).
追記1:
複素数が実際にどのように役に立っているかについては沢山の本が出版されているし,インターネット上にも沢山の記事がある.代表的なものとしては,三角関数との間に成り立つオイラーの公式:
e^{i x} = cos x + i sin x , ( i^2 = -1)
である.この関係が重要な理由を簡単に述べる.
三角関数というのは波の動き方や伝わり方を表現する上で重要な関数である.そして一番身近な ”波” は ”音” である.
あなたが,今もしイヤホンで音楽を聴きながらこのブログを読んでいるなら,その音源をコンピュータで処理するプロセスでこの三角関数が使われている.
そして,その音楽の音のような複雑な音の組み合わせを表現するには,”沢山の” 波の形が違う三角関数を使う必要がある(フーリエ級数とフーリエ変換).
そのとき,sin と cos の足し算を e^{ix} のようにいっぺんに表すことができると色々と便利なのである(もちろん複素数を使わずに,sin, cos を使って処理している場合もある). 興味のある方は ”フーリエ変換” や ”音楽” などのキーワードで調べてみてほしい.
追記2:
もちろん”数学”としての研究成果が後から役に立つことがわかるだけでなくて,数学以外の分野での問題を解決するために新しい数学がくつられて,それが発展してさらに役に立つものになって.... という場合もある.ちょっと難しい話だが,ディラックのデルタ関数に対するシュワルツの超関数や佐藤超関数,確率過程における伊藤積分や伊藤の公式などは,応用上の問題から数学的に発展した代表的な例であろう.
分数の割り算の話
分数の割り算では,割る数の分母と分子を入れ替えて掛け算する.この理由を説明するのには割り算の意味を知っている必要がある.割り算には幾つかの意味があるが,そのうち,1つあたりの量(比)の意味を考える;
例: 6個のりんごを3個ずつ袋に分けます. 全部でいくつの袋ができるでしょうか.
6(個) ÷ 3(個) = 2(袋)
答え:2袋
ここで,
⬜︎ ÷ ◯ = △
のとき,⬜︎を割られる数、◯を割る数,△を商という.
割り算の計算の結果△は,”◯を”1”とした時に⬜︎はいくつか” ということを意味している.大事なのは「”1”にしたい方を÷の後ろに置く」ことである.
実際,前の例では,
6÷3 = 2 だから,3を”1”と数える(袋に3こずつ入れて,3個を1袋と数えることにする)と,6は”2”(2袋)と数えることができるという意味である.
この関係は,比によって表すこともできる.
すなわち
6 : 3
と数字を並べて書いておいて,右側の3を3で割って1にするのと同時に左の数も割ると
(6 ÷3):(3÷3) = 2:1
この式の意味もやはり,「3を”1”と数える(袋に3こずつ入れて,1袋と数えることにする)と,6は”2”(2袋)と数えることができる」という意味である.
それでは,分数どうしでこの計算をやってみよう.
3/2 : 4/3
の右側を1にすることを考える.ここで,3/2は”2分の3”=1.5 である.
まず,両方に3をかける;
(3/2 × 3) : (4/3 × 3) = 9/2 : 4 ・・・①
両方を 4 で割って
((9/2) ÷ 4) : (4 ÷ 4) = 9/8 : 1 ・・・②
だから, 4/3 を "1" と数えることにすると 3/2 は ”9/8” になる.
もう一度,①と②を見てみると,3をかけて4で割っているから,3/4 を両方に掛け算すればいっぺんにできることがわかる;
(3/2 × 3/4) : (4/3 × 3/4) = 9/8 : 1・・・③
ここで割り算に戻る.「4/3 を1としたとき,2/3 はいくつになるか」を計算する計算は
3/2 ÷ 4/3 (”1”にしたい方を÷の後ろに置く)
であった.比の計算から答えは 9/8 である.この数字はどこから出てきたかというと③の左側:(3/2 × 3/4) である.
したがって,「4/3 を1としたとき,2/3 はいくつになるか」を計算する計算式は
3/2 ÷ 4/3 (”1”にしたい方を÷の後ろに置く)
と
3/2 × 3/4 (比の計算③の左側)
の2つがある.
しかし,「4/3 を1としたとき,3/2 はいくつになるか」の答えはひとつしかないはずであるから
「3/2 ÷ 4/3」と 「3/2 × 3/4」
は同じでなければ困る.数学では”同じである”ことを ”=” とかくから
2/3 ÷ 4/3 = 3/2 × 3/4
となる.
「わかるとはどういうことか」(割り算の話)
「分かる」ということは,人によっても異なるだろうし,同じ人でも問題によって異なることがある.
私が院生の頃,ゼミで商空間の話を聞く機会があった.それまではよくわかっていなかったのだけれど,その時の発表を聞いて「わかった」という感覚を得た.その時の話を大まかに説明しようと思う.
まず,割り算の意味について幾つか考えてみる;
1.分割
(例1):6つのりんごを3人で分けるとき,いくつずつ分けることになるか.
6÷3=2 答え:2個ずつ
2.比(一つあたりの量)
(例1)の計算に単位をつけて
6(個)÷3(人) = 2(個/人) 答え:一人当たり2個ずつ
3.同一視
(例2) 果物が全部で6こあります.この中にみかんとりんごが同じ数含まれています.みかんとりんごをそれぞれ別々の袋に分けて入れたとき,袋はいくつ必要でしょうか.
6÷3=2 答え:2袋
つまり,”個数”ではなく,同じ性質を持つもの(今の場合はみかんはみかん,りんごはりんごとしての性質を持つ)はまとめて1つとみなして(同一視して)数えるという意味である.
商空間の場合には3つ目の同一視という意味をもって”空間”をある規則で同一視したものとして定義されるという説明だった.割り算の意味について,”分割”,”一つあたりの量”に加えて”同一視”の意味を知っていると商空間の意味を理解することはそれほど難しいことではない.
情報と民主主義(数学以外の話)
裁判においては,検察は徹底的に被疑者にとって不利な証拠を揃え,罪状を確定し,遺族の処罰感情や社会的制裁いも含めてより重い刑罰を下すようにと訴える.
弁護士は,徹底的に被疑者にとって有利な情報を揃え,検察の証拠を覆そうとする,あるいは罪状を認めた上で情状酌量を訴え,刑罰を軽くするようにと訴える.
それぞれが「有罪 or 無罪」の天秤の両端にどんどんと重りを乗せていくイメージである.その天秤の釣り合いを観察するのが裁判官(あるいは裁判員)の役目であり,そのバランスを注意深く判断して,判決(=罪状と刑罰)を決める.
議会制民主主義においては,行政府はその行政府が目指す国家のかたちを実現するために政策を訴え,それに賛同する政党や議員に投票するように有権者(投票権を持つ者)に訴える.もちろん,そのために自分たちに有利な情報を有権者に向けて公表する.
これに対抗するのはマスメディアであった(過去形).行政側(行政権を持つ者)が公表する情報や,国家運営のロジックに対して徹底的に批判的な立場をとる.時には行政が決して公表しない不利な情報:権力の濫用や賄賂といった犯罪を暴く.
この場合は,行政とマスメディアがそれぞれ天秤の両側にどんどんと重りを積み上げていくイメージである(あるいは行政が斯くあるべきと考える国家のあり方に向かってアクセルを踏み,マスメディアがブレーキをかけるイメージ).
その天秤(あるいはアクセルとブレーキ)の釣り合いを見て,有権者は(各自の信条に基づいて)バランスが取れていると思う政策を訴える政党や議員に投票する.
ここで前提となるのは,マスメディアによる批判はもちろんだが,行政が公表した情報が正確に伝えられていることである.一部を切り取ったり,特に片方の側にとって不利になる映像だけを繰り返し放送するような行為は,一方の重りだけがどんどんと積み上がっているかのように有権者を錯覚させる.裁判で言えば,検察側,あるいは弁護側の一方だけの意見を聞いて判決を導くようなもので,とても公平とは言えない.
現在はというと,マスメディアの”報道しない”という権力の濫用に対して,インターネットが歯止めをかけている状況にある.こうした状況を”ポピュリズム”だとか”民主主義って??”と訝しがる論説を一部では目にするが,そうではない.
むしろ,行政側の公表した情報も,マスメディアの行政への批判的視座も,その両方を(インターネットによって)有権者が正しく知ることができる環境が整った,すなわち,民主主義が正しく機能する前提条件が整ったというのが正しい.
実際,マスメディア側からの情報は,テレビでもラジオでもインターネットでも見られるし,行政側の主張は,内閣府やそれを支える与党の公式発表及び公式見解を(やはりインターネットで)見ることができる.
こうした現状では,いかなる嘘や印象操作(発言の切り貼り,報道しない自由,発言の揚げ足とり,レッテル貼り,etc...)も意味がない.そんなことよりも,すべての情報をつまびらかにした上で,それらと科学的根拠とに基づき,「自分(たち)の主張が正しい」ということを論理的に訴えることができる者が有利である.
そのためには - 論理のなんたるかを身につけるには, 数学を学ぶのがよい.だから数学を勉強しよう.
「わかる」という感覚
数学をやっているとつい考えてしまうのが「分かる」とはどういうことかということである.定義でも定理でも良いがその”意味がわかる”という感覚は少しでも数学を学んだ人なら感じたことがあるだろう.
最近,その感じ方が人によって違うのではないかと思うようになった.例えば,
・ 論理的に正しいことが示された時にわかったと感じる
・ 幾何的に図やグラフに書くことで,状況を把握することができ,わかったと感じる
・ 計算の結果が正しいと確認できた時にわかったと感じる
など,どのような時に「わかる」という感覚を感じるかは人それぞれ違うのだろうし,同じ人でも考えている対象や分野によって異なる「わかった」を感じるのだろうと思う.
数学の教師は,自分がどのように理解したか(=何をもって「わかった」か)を拠り所にして説明をする.したがって,その教師の思う「わかった」という感覚と聞いている側の「わかった」という感覚が遠いと,いくら説明を聞いてもわからないということが起こる.
そのような時は,一度教師の説明を頭から追い出して,自分で一から教科書を読んで考えてみるのが良い.
多少労力と時間を要するが,図を描いてみたり,具体的な問題(練習問題)を解いてみたり,いろいろと自分なりの「わかった」という感覚が得られるまで試行錯誤が必要である.
わかるまでの時間は辛いが,わかった時の喜びは一入である.